<大晦日の晩のショック>
デンマークでは、毎年12月31日の夕刻6時になると、大晦日のパーティー準備に大わらわの人たちも、一旦その手を休めてテレビの前に集まります。それは、テレビで実況中継される女王陛下の15分スピーチを聞くためです。昨年の大晦日の晩も、我が家ではいつも通り、集まった家族たちがシャンペンをグラスに注ぎ、女王陛下のスピーチに耳を傾けました。
女王陛下は、昨年一年間に起きた出来事、特に、イスラエルとパレスチナの戦闘勃発、終わりの見えないロシアによるウクライナ侵攻、気候変動による甚大被害などで多くの尊い命が失われていることを大変憂慮されると同時に、社会のあらゆる分野で国民生活を支えるために働いている人びとの努力を称え、また初孫が立派に成人したことへの喜びも素直に語られました。そして最後に、ご自身の健康にも触れられ、さらに、今が王位を皇太子に譲る最善の時期と考え、ご自身が52年前に父君逝去により31歳で王位を継承された1月14日(2024年)に退位されることを表明されたのでした。
テレビの前でスピーチを聞いていた多くの人びと、そして実況中継を担当していたコメンテーターたちまでもが、このビックニュースに愕然とし、国中に激震が走りました。それもそのはず、女王陛下は以前から、「自分は生前退位せず、命尽きるまで女王としての任務を全うするつもり」と繰り返し語られていたからです。後日知ったことですが、王位継承のご当人フレデリック皇太子ですら、母君が年明け1月14日に退位することを知らされたのは3日前だったとのこと。83歳の高齢になられ、昨年受けられた背中の手術後は杖を使用されているので、勿論健康状態も生前退位の要因の一つであったと思いますが、55歳になられた皇太子がさまざまな人生経験を積んで国民からの信頼を獲得し、「王位を受け継ぐ心の準備はできている」ことを明言され、さらにその次の王位継承権を持つ孫のクリスチャン王子が18歳となり成人したことなどを総体的に鑑みて、100%ご自分の意志で決断されたことでした。メディアも、多くの国民も、この女王陛下の勇断を、国の象徴であるリーダーとして、まさに絶妙なタイミングだと高く評価したのでした。
女王陛下、大晦日のテレビ実況中継で生前退位を表明
<1月14日、国を挙げてのセレモニー>
デンマークは、年明け早々寒波に見舞われ、雪が降り、昼間もマイナス気温の寒い日が続きました。そんな中、王室はもとより、公的機関や各種メディアは、1月14日の王位譲渡セレモニーに向けて準備に大わらわ。二大テレビ局は、ほぼ毎日のように特別番組を組み、また日刊紙も日々紙面を大きく割いて、女王陛下の半世紀の軌跡を報道していました。どうもこのニュースは国際的にもかなり高い関心が持たれたようで、日本のメディアも、テレビ番組や新聞・ネット記事などでデンマークの女王陛下や来たる国王・王妃についていろいろ取り上げていたようです。
英国のエリザベス女王が逝去された後、チャールズ国王の戴冠式が挙行されて世界中が注目したことはまだ記憶に新しいですが、英国のような戴冠式は、デンマークでは過去360年以上おこなわれていません。そして今から175年前の1849年に憲法が制定され専制君主制から立憲君主制に移行してからは、政治的リーダーである首相が、国会議事堂のバルコニーに新国王(あるいは女王)と並んで立ち、そこから国民に向けて王位が譲渡されたことを公表する形式が取られるようになりました。(デンマークにおける王位継承権については、2022年1月のno.36号「
デンマーク女王即位50年」の記事で解説しているので、ご参照ください。)
バルコニーでの発表直前には国家評議会(英語:Counsil of State,デンマーク語:Statsråd)が開かれ、ここで、女王陛下が退位の正式書類に署名され、これを首相に手渡し、次に皇太子が君主の席に座り直して、王位譲渡の書類に署名して新国王となりました。この国家評議会は、君主・皇太子・首相および大臣が出席しておこなわれるもので、国会で採択された法律などの国家重要事項を、評議会で最終的に君主が署名して効力を発することになります。ただし君主の署名は、象徴的意味合いしか持っていません。
このシンプルなセレモニーが滞りなく終わったところで、女王陛下は新国王の背後に
立たれ、静かに「神よ、国王を守り給え」(英語:God save the king、デンマーク語:Gud bevare kongen)と唱えられて退席されました。このセレモニーの模様は、翌日メディアで公表されましたが、安堵と感極まった女王陛下の表情、緊張と喜びに溢れた新国王の表情、そして新たに皇太子となった孫クリスチャン王子の祖母をいたわる表情が、過去→現在→未来への継続を象徴しているようで、とても印象的でした。
翌日日刊紙に報道された国家評議会でのセレモニーの模様
左端:新皇太子クリスチャン | 右端:フレデリクセン首相
<新国王初めてのスピーチ>
いよいよ国民が待ち望んだ国会議事堂バルコニーでのセレモニー。まずフレデリクセン首相と新国王がバルコニーにあらわれ、首相が即位報告のスピーチ、次に首相の音頭で、国会議事堂前広場を埋め尽くした市民が一斉に新国王即位を祝って「Hurra(日本の万歳に相当)」を9唱、その後、国王即位後初めてのスピーチへと続きます。「即位直後のスピーチをどのような言葉で締めくくるか」は、これがいわゆる新君主のモットーの意味合いを持つため、国民皆が非常に注目するところです。それは、日本語に訳しにくい表現なのですが、「デンマーク王国への結束と義務」(英語:United, bound, to the Kingdom of Denmark.デンマーク語:Forbundne,forpligtet,for Kongeriget Danmark)となるでしょうか。
バルコニーでの新国王初めてのスピーチ
マルガレーテ女王はじめ過去のデンマーク君主は、スピーチを、「神よ、デンマークを守りたまえ」(Gud bevare Danmark)で締めくくるのが常だったので、今回「神」という言葉が用いられなかったことに対し、ある種の驚きというか意外性を感じた人は少なくなかったようです。その後メアリー王妃はじめ夫妻の4人の子どもたちもバルコニーにあらわれて観衆からの祝福に応えました。新国王は観衆からの熱気あふれる歓声と祝福に感無量となり、何度も目頭を押さえておられたのも印象的でした。
市民から祝福を受ける国王一家
今回の即位セレモニーは、過去900年間デンマークで一度も実施されなかった「君主の生前退位」という異例な形式を取ったため、歴史的に非常に大きな出来事と捉えられましたし、国民から女王陛下へのいたわりと感謝の気持ち、そして新国王に対する祝賀と期待が重なり合って、デンマークにとっては最大級の記念すべき日になったようです。この日の模様は、前後のパレードの様子を含めて、朝7時から夕刻までテレビで実況中継され、これを約300万人がフォローしたと報道されましたし(デンマークの総人口は、590万人)、当日国会議事堂前広場には約17万5千人、パレードが通過する近くの広場や宮殿前広場には約12万5千人というように、首都コペンハーゲンの旧市街は、30万人以上の人びとで埋め尽くされたのでした。
国会議事堂前広場に集まった市民
<国王の言葉>
新国王フレデリック10世が、バルコニーでのスピーチを締めくくるにあたって、「神」という言葉を入れず、これまでにない新しい表現を用いられたことに対して、早速翌日以降の新聞には、さまざまな分野の人たちから賛否さまざまな論評が寄せられ、紙面を賑わせました。熱心なキリスト教信者や一部のキリスト教会関係者からは、「がっかりした」という声も聞かれましたが、大方の意見は、「国王は、国の象徴として、国/社会/国民の結束のために努力し、また重い責任を負うことを誓われ、さらに国王は、国民一人ひとりに対しても、さらなる連携/相互理解/信頼を呼びかけられた」のだといったものでした。
即位セレモニーがおこなわれた3日後の1月17日、全国の書店には、「王の言葉」(デンマーク語:Kongeord)というタイトルの112頁の本が、予告なく突如並びました。この本の著者イェンス・アナセン(Jens Andersen)は、フレデリック10世国王が皇太子の頃から頻繁にインタビューを繰り返し、7年前には皇太子を扱った著書が自叙伝ベストセラーになるなど、国王の人となりを熟知している人。国王が著者に向かって、ご自分の国王としてのヴィジョンや考えを語る形式が取られていて、当然即位後初めてのスピーチや言葉にどのような気持ちを込めたかも述べられているとのこと。
この本が、即位直後、絶妙なタイミングで出版されたことは、まさに青天の霹靂としか言いようがありません。このニュースが報じられた途端、人びとが書店に殺到し、あっという間に完売されたとのこと。今は、(私も含め)多くの人が予約待ちの状態です。
即位3日後に出版された著書「国王の言葉」
というわけで本の内容はまだよくわかりませんが、内容そのものよりむしろ、国王自らが読者に向かって、「自分はこれからこうしたいと思っている」という気持ちを素直に語るその姿勢が、大きな意味を持っているように思われます。彼は以前から「スポーツ系で、シャイで口下手」とよく言われてきました。文学・歴史・芸術各分野に長け、ユーモアがあり開放的であると同時に伝統を重んじる母君とはかなり性格が異なります。だからこそ、コミュニケーション手段として本を選ばれたのかもしれません。
デンマーク王室の新たな船出は、このようにまずは順調に始まりました。これからは、オーストラリア出身のメアリー王妃とともに、デンマークがこれまで歩んできた歴史を踏まえつつ、激動する21世紀に見合う近代的な王室を一歩一歩築いていかれることでしょう。ちなみに、今年で5年目を迎える「ロイヤルラン」と呼ばれるマラソン大会が5月に開催されます。皇太子時代と同じように、新国王夫妻とプリンス/プリンセス4人が、一般市民に混ざって走る姿が今年も見られることでしょう。